『とある魔術学者が遺した私的な回顧録』
※ゲームシナリオ形式、()はト書きです。


【王都・サーカス小屋裏】

(季節は冬の終わり頃、霧の裏路地。湿った空気に、焼けたわらのようなにおいが混じる。くすんだ麻布の粗末な衣服をまとった黒髪の少年――八、九歳ほどか――が、ひざを抱えてうずくまっている。衣服からのぞく手足は酷く痩せている。端正な顔立ちだが、表情からはなんの感情も読み取れない。少年の前で二人の男が立ち話をしている)

団長「この子ですかい、先生。たしかに火を出す芸だけはそこそこ……だが、口がきけねぇ。名前すら、はっきりしませんで」

(団長が、話し相手である男の懐からのぞく懐中時計に目をやる。銀の縁に刻まれた文字――R・Green [グリーン])

団長「これで“先生”のお役に立てますかねぇ」

学者の男「……彼は、自分の意思で沈黙している。黙っていても思考はするどく澄みきっている――目を見ればわかる」

団長「はあ。ま、なんでも。商売ですんで、代金さえいただけりゃかまいません。で、どうされます?」

学者の男「引き取らせてもらおう」

(男はかがんで少年と目線を合わせ、そっと手を差し出す。少年の目つきがやや鋭くなるが、やはり微動だにしない。数分ののちに少年がわずかに手を伸ばし、男の手にふれる。男はその手を握り、対価を支払ってサーカスを後にした)

【王都・第二商業区大通り】

(男は少年の手を引いてゆっくりと歩いている。そのままにぎやかな往来を抜け、やがて馬車の前にたどり着く)

(少年がふと足を止め、ふいに体をこわばらせ、男の手を握る力を強める。男は目を見開き、少年の様子をうかがう。雨粒が一つ、少年の頬に落ちる)

少年「…………雨…………」

(少年は視線をさまよわせている。明らかな狼狽、動揺)

学者の男「……ああ、降ってきた。急ごう、馬車に乗りなさい。きみが先に」

【屋根付きの四輪馬車/内部】

(少年は乗り込むと、座席の隅にぴたりと体を寄せ、身を縮める)

学者の男「冷えるな。これをかけていなさい。毛布代わりになるだろう」

(男は自分の外套を脱いで差し出す。少年はちらりとそれを見るが、すぐに目を伏せる。受け取る様子はない)

学者の男「……返事はせずともかまわない。きみの意志を尊重しよう。話さなくていい――ただ、受け取ってくれないか。体を冷やすと風邪をひく」

(少年は視線を逸らしたまま硬直しており、やはり受け取ろうとしない。男が外套をそっと肩にかけてやると、少年はそのまま自ら外套にくるまるように体を丸める)

(男は目を細めてその動作を見つめている。口元がわずかにゆるむ)

学者の男「……目的地の村までは、まだ遠い。今夜は近郊の宿場町に泊まろう。長旅は負担だろうが、付き合ってくれるか?」

(少年は外套にくるまり、自らを抱くような姿勢で小さくなっている。やがて目を閉じるが、馬車が大きく揺れるたびに薄く目を開け身じろぎをする。眠ってはいないようだ)

(車輪が石を踏む音、雨が小さく馬車の屋根を叩く音)


学者の回顧録:
「――眠っていないことはわかっていた。温かい薬湯やスープを差し出すこともできたのだろうが、外套をかけてやるだけに留めた。それが冷たい判断であったと言うのなら、私は咎めを受けるべきだろう。しかし、あれが『実の娘にさえ深く触れたことのない人間の限界』だったということは認めねばなるまい。そもそも私の行為は”社会的正義の執行”でも”救済”でもなかった。

その時すでに、私の脳裏には『この子に名をつけてやることになるのだろうか』という予感めいたものが浮かんでいた。だが同時に『名を与える』という行為が彼にとって新たな呪いになりはしないか、とためらってもいた。後になって考えてみると、私の娘は、私よりもずっと勇敢だったようだ。

いま、あの子は……何を思いながらあの名を名乗っているのだろうか?


霧の王都で静かに、しかし確実に運命の歯車を回した「原初の出会い」。『ラスト・ブルーマー ―時計塔の亡霊―』序章、はじまりの物語でした。このお話の結末が「祝福と希望」になるのか、「破滅と絶望」になるのか、それはまだ分かりません。十三の鐘が鳴るまで――「再演」の刻までいましばらくお待ちください。