『異類婚姻譚』感想( ネタバレ注意)
読書ログ
本谷有希子(2016)『異類婚姻譚』株式会社 講談社
『異類婚姻譚』
いつの間に、私は人間以外のものと結婚してしまったのだろう。
『異類婚姻譚』より
専業主婦である主人公の「サンちゃん」は、ある日、自分の顔が夫の顔とそっくりになっていることに気づく。夫の顔は人の顔形を保つのが困難かのように、徐々に崩れ始める。夫の顔のパーツは「サンちゃん」の目鼻立ちを真似るように動くこともあるようだ(「そのほうが楽なのかもしれない」と「サンちゃん」は思う)。サンフランシスコに住む夫婦が石を身代わりにした話、「蛇ボール」、捨てられる猫、大量の揚げ物を作る夫。夫婦の輪郭が崩れ、混ざりあい、不安が平穏な日常を侵食し、最後には……と、いうような物語。
とても面白く、ページをめくる手が止まりませんでした。情景の描写がとても巧みで、美しい邦画を観ているような気分になります。夢中でページをめくるうちに、「サンちゃん」ではありませんが、本の言葉と読み手である「私」の輪郭も混ざっているような感覚をおぼえました。「あれ、私もこの場所を見たことがあるかも。この話も、聞いたことがあるかも」と思ってしまいます(もちろん、事実とは異なります)。
抽象的な物語なので、いろいろな解釈が可能かと思いますが、私の解釈を書き留めておきたいと思います。
「サンちゃん」(妻。主人公)……人物像をひとことで表すなら、「自分という輪郭を失った女性」という感じでしょうか。物語を読み始めたばかりのときは、彼女の行動原理がよくわかりませんでした。「旦那」との同化に違和感をおぼえながら、違和感に対して積極的にアクションを起こすわけではない。「キタエ」さんが猫の「サンショ」を捨てることを止めたい(?)が、止めない。すべてが受け身でありながら、「旦那」との同化には違和感がある……読み手である私からすると、強い情動のようなものが感じられない「サンちゃん」。「サンちゃん」の人物像に違和感をおぼえながらも、先が気になって読むのをやめられないことに気づいたとき、読み手である私と「サンちゃん」の輪郭がぼけていることに気づき、背筋が寒くなりました。「サンちゃん」の正体を理解するための肝となるのは、やはり蛇ボールの話(下記)かと思います。
相手の思考や、相手の趣味、相手の言動がいつのまにか自分のそれに取って代わり、もともとそういう自分であったかのように振る舞っていることに気づくたび、いつも、ぞっとした。……(中略)……今の私は何匹もの蛇に食われ続けてきた蛇の亡霊のようなもので、旦那に呑み込まれる前から、本来の自分の体などとっくに失っていたのだ。
『異類婚姻譚』より
なるほど。この女、実体がないぞ。つまり、そういうことなんですね。「サンちゃん」には実体がない。「旦那」も、そう指摘していましたね。大事な話をしたいだけで、大事なことがあるわけではないんでしょ、と。この夫婦の同化は両方向から起こっていました。「旦那」は「サンちゃん」に近づき、「サンちゃん」は「旦那」に近づく。でも、その原理は同じではなかったんですね。「旦那」は(おそらくは)自身の真の感情、夢、欲望などの「誘惑」を打ち消そうとして、必死に「無気力」になっていた。つまり、「無気力」により誘惑に抵抗していました。「無気力」は、無に近い存在である「サンちゃん」に合わせることでラクに実現できるものだったので、「サンちゃん」に同化していった。一方で、「サンちゃん」の側は、自身は既に空っぽな「蛇の亡霊」であるがゆえに、同化を求める「旦那」に引っ張られて同化していた。でも、「サンちゃん」は、たとえ自我を失った「蛇の亡霊」であっても、自分であることを止められず、最終的には「同化」を拒否した、と。体がないのに同化を拒むというのも、それはそれで怖い。物語の最後で、山芍薬と竜胆が同化しているのを見て足早に立ち去る「サンちゃん」の姿に恐怖をおぼえました。自分の体も相方の蛇も失った「蛇ボール」の蛇は、どこへ向かうのだろう。輪郭は、もはや、どこにも存在しなさそうです。
「旦那」……山に還った旦那。「サンちゃん」は、「旦那」がずっと「誘惑」されていた存在、つまり「旦那」がなりたいと思っていた存在は山芍薬だったと言っていましたが、これは私には腑に落ちない感じでした。そうかな? 作中で、結婚とは相手と同化してしまうこと、食い合ってしまうこと、というような結婚観が何度も登場します。この物語では結婚と自我の喪失を絡めて描いているため、「旦那」側の視点でもそういった想いがあったことは想像できます。「旦那」は「サンちゃん」の「土」となることで、はかり知れないほど多くのものを失っていると思うんですね。夢、感情、「サンちゃん」と結婚した自分にはもはや手の届かないたくさんの欲望があって、それらが複雑に混ざり合った結果、山芍薬になってしまったわけで、べつに最初から山芍薬になりたかったわけではないような気がします。たくさんの色を混ぜた結果、真っ黒になったみたいな話と似ているかもしれない。欲望の中には、前妻への想いも含まれているのかもしれません。
「サンショ」(猫)……「サンショ」は「サンちゃん」の隠喩でないかと思いました。「サンショ」の存在が、キタエさんの日常の輪郭を曖昧にした。この構図は「サンちゃん」と「旦那」の関係と似ているような気がします。「サンショ」は山の生き物ではないのに、山へ還されてしまう。「サンちゃん」は、山ではない、神社のほうがまだよかった、と思うが、何故か言えない。この鬱屈とした感じが、ラストシーンの衝撃の台詞、「旦那はもう、山の生きものになりなさい」につながるわけですね。
「竜胆」……私は「旦那」の前妻であると解釈しました。「旦那」は前妻が支離滅裂なメールを送ってきた、と言っていましたし、作中で語られた前妻のモデルのような容姿と、紫色の凛とした竜胆のイメージとがぴったり重なりますし。山芍薬と竜胆がよく似ている、と「サンちゃん」が感じたのは、本当に両者が同化してきたためか、「サンちゃん」が同化を恐れているためかわかりませんが、もし前者だとしたら、「旦那」が本当に目指していたのは前妻の姿だったのかもしれませんね。山芍薬ではなく。
『<犬たち>』
昔、サンタクロースにお願いしたことがあるの。朝起きたら自分以外、誰もいない世界。
『<犬たち>』より
『<犬たち>』、すごく好きでした。何度も読み返したくなる作品です。
『異類婚姻譚』と同じく、印象的な場面設定と、情景が克明に目に浮かぶような表現力とに惚れます。特に、犬たちが湖を泳ぐ場面が好きです。その直後の「透き通った水の中で優雅に魚を追っている犬たちの姿を、何度も思い浮かべた」という主人公の女性の台詞も、とても好きです。孤独に生きる主人公の、素朴な優しさと聡明さを感じさせる語り口調も、この物語の美しさを形作っている重要なピースであると感じました。
そしてこの作品で最も印象的な場面、ラスト付近のゴーストタウンの描写。<犬>と赤いスプレーで殴り書きされた道路って、まるでホラー映画みたいだな……と思いつつ、状況はホラーなのにホラーを感じさせない描写力に感服しました。町の人たちが消えてしまったことについても、まったく恐怖は感じません。むしろ、人がいなくなったことに安心感すらおぼえてしまいます。主人公の視点では、町の人は猟銃を持ち歩き、<犬>を敵視し、よそ者に冷たい目を向けてくる、恐ろし気な存在でしかなかったんですよね。その村人たちが消えた今、町は、雪が積もり自然に囲まれた、清廉な場所でしかありません。そんなゴーストタウンは、<犬たち>にふさわしい場所になった、ということなのかもしれないな、と思いました。
ラストで主人公が<犬たち>に猟銃を向けたときは<犬たち>と同じく私もびっくりしましたが、本当に殺そうとしたわけではなくてよかった。え、もしかして、孤独に耐え切れなくなったのか? 町に人が戻ってきたほうがいいの? と、一瞬、疑ってしまいました。実際には猟銃を撃たなかったことから考えて、「他の色が見てみたくなった」というのは、ちょっとだけ変化がほしくて<犬たち>を驚かせてみただけ、みたいですね。ここで撃っていたら、作品の印象は180度変わっていただろうなあ。この結末で良かったです。
『トモ子のバウムクーヘン』
コンロの火を弱火にしていたトモ子は、この世界が途中で消されてしまうクイズ番組だということを、突然理解した。
『トモ子のバウムクーヘン』より
この感覚は、わかりませんでした。
いや、話自体には引き込まれますし、情景描写も巧みで美しいんですが、主人公の感覚が、頭では理解できても心で感じられないというか。この物語で表現されている感覚が、私には(現状では)備えられていないんだと思います。『異類婚姻譚』、『<犬たち>』、のテーマはめちゃくちゃ沁みるんですが。
しかし、表現力がすごい。子どもたちの様子、猫の様子、カーテン……主人公の目の前で起こっている出来事が、まるで自分の目の前で起こっているかのように感じられます。この物語の主人公と似た感覚を持った方が読んだら、すごく胸に刺さると思います。
『藁の夫』
きっと少しの火で、あっという間に燃え上がるに違いない――。
『藁の夫』より
燃やそうぜw いや、燃やしましょう。シートベルトくらいでガタガタうるさいやつだな! 最後、ランニング中にまた楽器落としてるみたいだし、走り終わったら火つけましょう。きっと紅葉と同じくらい綺麗ですよ!
藁でできた夫を燃やす話でした。不気味なんだけど和む(?)という新しいジャンルですね……。
抽象的な物語が多く、「届く人に届けばよい」ような作りであると感じました。『トモ子のバウムクーヘン』に共感する感性をもった方の解釈も読んでみたいです。新しい世界を広げられそう。
時間を忘れて熱中できるすばらしい作品群でした。
本屋さんで見かけて直感的に表紙買いしたんですが、読んでよかったです!