かたちのない箱庭にさわる話

こんにちは。毎日、暑かったり寒かったりでふわふわしています。待ち遠しかったGWですが、長く休んでいるとだんだんと仕事をしたくなってきてしまって自分でも衝撃でした。仕事がはじまると、久しぶりに仕事用の脳の回路を使ったので、なんか楽しかったです。会社のような「組織」は少し苦手なんですが、現在の職種自体は自分に合っているんだろうなあと思います。もし今後、転職することになったとしても、同じ(ような)職種で探せるといいな。


今日は創作の話です。

創作物をゲームという形でインターネットで公開しはじめた2013年から、リアル環境の変化により趣味の創作とのつきあい方に悩んだり、そもそも自分はなぜ創作をしているのかを疑問に感じたり、創作物をインターネット上で公開することに対して不安や恐怖をおぼえたりすることがありました。そのたびに創作活動やサイトを休止していて、創作活動を続ける意味があるのか、続けるとしても公開する意味があるのか、いろいろと悩んできました。

昨年秋から今年の春までサイトを休止していたのも、いつものごとく、創作活動との向き合い方がわからなくなったからです。ですが、最近になってようやく、私にとっての「創作」の正体がつかめてきた気がしています。同時に、どうやって創作活動とつきあっていこうか、という長年の悩みにも「いったんの」結論が出たと感じていますので、ブログに書き留めておきたいと思います。いま、とてもさっぱりした心持ちです。まとめてさらにさっぱりしたい。

最初に断っておきたいことがいくつか。これから、私の心象世界の話を書きます。日々感じていることをそのまま文章にしますので、意味が伝わらない部分があるかもしれません。また、この話はあくまでも「私が」創作をどう受け止めているか、という感覚をなるだけ正確に書き連ねようとした文章であって「創作とはかくあるべき」みたいな「べき論」ではありません。人によって感覚は違うはずですので、不快な思いをさせてしまうかもしれません。あと、長文です。こういう話が苦手な方は、読み飛ばしちゃってくださいな。


【「かたちのない箱庭」について】

私が創作物を公開しはじめたのは2013年でした。他人に理解できないような、自分の中だけで完結した表現をもつ「創作ごっこ」自体は子供のころから遊びの一環としてやっていましたが、「創作」が創作物としての形をもつことを明確に意識して物語を表現したのは、2013年に公開した『モノクローム・ドリーマー』が初めてでした。

私にとっての「創作」とは(本来は)「創作物」としての形を前提とするような種類のものではありません。これは私の空想癖が生み出す世界です。高校生のころ、部活の先輩に空想癖があると話したら、芸能人とつきあう想像してたりするの?みたいな感じのことを聞かれた記憶があるんですが、空想癖と言っても、そういうものとはちょっとジャンルが違います。私の空想癖とは、「私」が登場するようなものではなく、そもそも、そこまで現実に即した空想でもありません。また、そのときどきでその場に合った空想をするような、断片的なものとも違います。

私の「空想癖」は「箱庭」です。昔、「箱庭」という言葉を初めて知った時に、妙にその言葉に惹かれました。考えてみると、私の頭の中にある世界には「箱庭」という表現があてはまるかもしれない、と思い、それから自分の中で私の頭の中にある世界を「箱庭」と呼んできました。でも、実際の箱庭とは大きく違うところがいくつかあるんですね。

まず、私の「箱庭」は、秩序のないカオスであり、常に流動的に変化する世界です。私は、現実で見た景色(人や物や風景)や得た情報、学んだ知識、ふれた物語をつねに(無意識且つ恣意的に)「箱庭」に取り込んでいます。無意識且つ恣意的に、という部分については、説明が難しいです。おそらく、感情が動くと取り込まれます。たいして感情が動いていない勉強中でも「これは私の箱庭に入れたい」と私が考えたものは、取り込み可能です。「箱庭」は色彩と音を有する、動くイメージがぎゅっと詰め込まれた世界です。そして「箱庭」は、非常に流動的です。「箱庭」ですので、当然、境界(ここからは出られないという壁のようなもの)があります。詰め込まれたイメージは「箱庭」の中から出られず、分子のように自由に動き回ります。限られた空間内で動き回っているため、他のイメージと重なります。イメージAとイメージBが重なることもあれば、イメージBとイメージCが重なることもあります。「箱庭」に対する私の認識は「うろ覚え」ですので、いつのまにかイメージが消えていたり、変質していたりします。例えるなら、眠っている時に見るめちゃくちゃな夢みたいなものです。(というか、私が眠っている時に見ている夢と、私の「箱庭」はほぼ同一の存在かと思われます。眠って夢を見ているときは、「箱庭」の中を見て回っているようなイメージです)。「箱庭」は現実の常識やその他あらゆる制限から自由であり、とにかくカオスです。物理法則も論理も倫理も存在しません(正確にはいちおう存在しますが、上述のように流動的かつうろ覚えで秩序がないため存在しないようなものです)。私が現実で見たものを恣意的に取り込み、それを抽象化し空想化して他と組み合わせ、また流動する、カオスです。壁があり有限のはずですが、私はなんとなく無限だと感じていることが多いです。無限のカオスです。「箱庭」に存在する概念の90パーセントくらいは嘘です(うろ覚えでないものは真実)。虚構でありファンタジーであり嘘であり夢である、私だけが触れられる空想の世界です。

うん、書いていてやっぱり実際の箱庭とはなんだか違う気がしたので、今後(私の心の中では)「かたちのない箱庭」のような言葉で認識しようかな。もっとしっくりくる言葉が存在してそうな気がするけど、いまの私の語彙にはないようだ。

私はこの「箱庭」の構築を、物心ついたころから無意識にずっとおこなってきました。子どものころは現実との区別がついていなかったため、「箱庭」は現実の自分の隣にしょっちゅう現れるもので、実際めちゃくちゃ幼いころは「箱庭」の中身が、目の前のカーペットの上で踊っているような錯覚を起こしていました。いまは大人なので現実とははっきりと区別できますが、「箱庭」への情報の取り込みと取り出しはいまでも変わらず、日常的に行われています。取り込みは、つねに。取り出しは、おもに創作世界を考える時に。

【なぜ創作物をつくるのか】

創作物としての形をもち完結してたゲームを初めてつくった時、それを自分でプレイしたとき、こんな楽しいことがあるのかってくらい楽しかったです。ゲームを完成させて気づいたこと。自分でつくったものを自分でプレイするのは、楽しい。「この台詞ってどういう心情で言ったんだろう? こういう世界でこういうシチュエーションなら、こういうニュアンスも含まれるのかな?」「もしかしてこの展開以外の展開になった可能性もあった?」「この世界の言葉はどんな響き? 少女が話すときはどんな音が聞こえるか、成人男性が話すときはどんな音が聞こえるか?」「この場面以外にこういう場面もあったらテンションが上がりそうな予感がする……」みたいに、自分がつくった創作物を見て、次々とべつの映像が浮かぶ(これもまた、空想)からです。そして、私が空想することは、「箱庭」にフィードバックされるからです。空想すること、表現すること、その表現に基づいて空想すること、そのすべてに強い「快感」をおぼえていることに気づきました。

ちなみに、私の中で自分が作った物語を考察することと、他者がつくった物語を考察することとには、明確な境界がないようです。だから、セルフ二次創作も楽しいんだと思います。彼らは「箱庭」で魂を得て異世界に生まれた存在ですので、私の所有物ではないんですよ。彼らには彼らの人生があります。

【なぜ創作物を公開するのか】

これも考えてみました。外部からの反応を求めているからだと思います。経験はないですが、もし仮に創作物を公開しても、感想などの反応がまったくのゼロだったとしたらどう思うか考えてみました。私は自分の創作物について「広いインターネットに放流している以上、私以外にも楽しめる人は存在している」という謎の確信を持っているので、実際には反応がゼロでも(こちらに伝わらないだけで)誰かに届いたんだなあと認識しそうです。これは自分の創作物が特別優れていると思っているわけではなく、私は創作物とはそういうものだと思っているからです。1人が好きになるか1億人が好きになるかという違いはあっても、自分以外の誰も絶対に一切の興味を持たず好きにならない作品……って、逆にハードルが高いような。反応が届くか届かないかだけの問題ではないかと感じています。あ、異論はもちろん認めます。私がそういう感覚を持っているというだけの話で、根拠はありません。なので、外部にいる誰かに響くだろうという意識にもとづいて公開しています。公開した時点からすでに、反応は、私の中では「あったこと」になります。私の創作物が私の中での意味を超えて他の場所で意味を持った、ような気がして満足感が得られます。だから、公開しているんだと思います。

でも、感想などの反応は、もちろんうれしいです。うれしいですし、他の方からのフィードバックがあった場合、体感上、「箱庭」の成長(膨張?)につながることがあります。ポジティブな感想は、さらなる空想を促す刺激になる感じです。ネガティブな批評はあまり受けたことがありませんが、ネガティブな批評も「箱庭」への刺激となり、いずれは新たな世界を生む種となり得る(かもしれない)と思われます。ちなみに、先ほど書いたように「箱庭」の住人は私の所有物ではないという認識で私は生きていますが、「箱庭」は私の所有物であると明白に感じています。理由は、わかりません。ワシが育てた、みたいなものかもしれないw 私しか行けないところにあるからかもしれません。

話がちょっと脇道に逸れますが、「箱庭」は、外部からのメッセージは届かない場所にあります。というより、いかなる情報も、ダイレクトな形では、届きません。届くのは、私が恣意的に選択したイメージと、「箱庭」から出た創作物から得られたフィードバックの逆輸入のみです(後者もたぶん直接的な形では届いていない気がする)。守られているからというよりは、はてしなく遠くにあるため物理的に届かないような感じです。「箱庭」は私の所有物ですが、そもそも守る必要があるような場所にはありません。存在する次元が違うのかもしれない。異次元で安全なカオスです。そこへ行けるのは、ずっと昔から、私だけです。

【シーンから発想する手法】

創作の方法論の有名なもので「思いついた1シーンから想像を膨らませて設定や起承転結をつくる」というものがあります。私はだいたいこの方法で創作をしていると思っていたんですが、実際は違うのかもしれません。私は「箱庭」を見つめて、発見した印象的っぽい場所を切り抜いているだけかもしれないということに気づきました(という自分用メモ)。

【連続する刹那の話】

ベストセラーの『嫌われる勇気』(岸見一郎 古賀史健 2013年 ダイヤモンド社)を読みました。『嫌われる勇気』はアドラー心理学をわかりやすく説く本なのですが、ラスト付近の「人生は連続する刹那」という話に、うわあこれで幸せになれそうっていうくらいの激しい感銘を受けたので、考えたことを書きます。ここに書くくらいなので、上述の創作メモに絡めた話です。

『嫌われる勇気』の中で、人生を「線」だと考えるのは危険だ、という話が出てきます。例えば、人生を「目標である山頂に到達するための旅」のようにとらえて生きるのは危険だ、という話らしいです。このように人生をとらえていると、なかなか幸せになれないそうです。なぜなら、人生が「目標である山頂に到達するための旅」なら、人生の大半は「途上」であるから、だそうです。さらに、山頂にもし到達できなかったら、人生そのものを失敗と感じてしまうから、だそうです。これを読んで、私の生き方はまさに「線」だなあと感じたんですが、それは趣味の創作においても例外ではなく、私の創作スタンスもきっと「線」であり続けてきました。ずっと『ポーヨラ賢者奇譚』という長辺RPGをつくってきたんですが、「完成」するという遥か遠くのゴールのために、いまこの瞬間やりたいことをないがしろにしているような、でもゲームを完成させたいという気持ちも嘘じゃないし……と、悩むことがよくあったので。「線」としないならどう考えればいいのか、という話については、「連続する刹那」として捉えてはどうか、ということでした。本の中の、バイオリニストの例が印象的でした。世界的に成功したバイオリニストは、バイオリニストとしての成功という山頂を目指して、人生を「線」として捉えて自分を犠牲にして努力してきた……のではなく、目の前の1曲、目の前の1節、目の前の1音、ひとつひとつの瞬間に集中してベストを尽くしてきた結果、つまり、「連続する刹那」を生きた結果、山頂に到達したのではないか、という話です。いままで、「目標をもって生きること」と「いまこの瞬間に集中すること」は、なんだか矛盾するように感じていました(いまこの瞬間に集中していたら未来のことは考えられないし)。でも、きっとそうじゃないんですね。未来のことを心配することは、目標をもって生きることとイコールではないのかもしれません。目標ができたら、その目標に向かっていまやれることを考える。考えたら、未来をあれこれ心配せずに、いまやること、やっていることに集中するのが大事なのかなと思いました。私の人生の他の面もですが、趣味の創作もそうありたいです。「自分で楽しめるゲーム」をつくる、のが私の創作のテーマですが、つくる過程にももっとスポットライトを当てようかと。「自分で楽しめるゲーム」を「いま」つくっているという意識をもって、未来のことを心配し過ぎない。制作ペースが遅いなあ大丈夫かなあとか、もし完成しなかったらどうしようとか、完成しても批判されて炎上したりしたらどうしようとか、そういう不安をもって日々を過ごすんじゃなく、いま考えているひとつの台詞、いま考えているひとつの場面、いまこの瞬間の創作に真剣に向き合いたいです。遠い未来の不安ではなく、いま私は「箱庭」をちゃんと切り取れているか、表現したいことを表現できているか、を考えることに焦点を当てるようにしたいです。それはおそらく(これまでよりもさらに)創作している瞬間をとても楽しくしてくれることのような気がします。そして、その瞬間が積み重なった結果、いつの間にかこんなに完成に近づいている、完成している、という結果が得られたらいいな。得られなくても、「自分で楽しめるゲーム」を作るために毎日創作を楽しんだ、という結果が残るのなら、それはそれでいいかな、と思いました。でも、なんとなく、やっぱり完成するような気がします。なぜだろう。

【総括】

総括っていう項目つくったけど、別に書くことなかったw


なんか、自分にとっての創作の位置づけがだいぶ明らかになってきたので、目的以外のことは些末なことだなって思えてきました。最近もさまざまな謎の被害妄想を人知れず抱いていたんですが、完全にただの妄想でした。空想癖があるせいなのか、それとは関係ないのか定かではありませんが、妄想癖も併発しているみたいですw